映画「玄牝−げんぴん−」を見た。

 2012年の7月下旬、私の大学の授業で、河瀬直美監督の映画 「玄牝−げんぴん−」 (2010年公開。以下、ゲンピン)を上映した。ゲンピンは、愛知県岡崎市の「吉村医院」で行われている自然分娩を扱ったドキュメンタリー映画である。以下の、(思いのほか長くなってしまった)文章は、私がこの映画を見て感じたことを、学生の反応なども踏まえたうえで、できるだけ率直に書いてみたものである。なお、この文章を読むにあたって、私自身が、父として吉村医院のお産を既に二回経験していることについては、あらかじめ伝えておいた方がいいかもしれない。

 はじめる前にもう一点。もともとこの文章は、「この映画を授業でとりあげた理由」の話からはじまるものであった。が、内容は抽象的だし映画の内容と直接に関係があるというわけでもないため、ゲンピンに興味があって読む人にとっては苦痛であろうと思い直し、付録として末尾に回すこととした。これで、結果的に読みやすくなっていればよいけれど。

自然出産における死の位置付け

 ゲンピンは、自然出産を推奨している吉村医院を舞台として、出産における死の問題を(まずは)扱っている。この死は、括弧付きの「死」であるより前に、出産時に生じ得る直接的な死である。この映画を見て誤解している人も多いが、吉村医院は、現代医療による達成を完全に放棄しているわけではない。実際、診療風景自体は、他の一般の産院と大きく変わらない。いかにも病院といった感じのする診察室に置かれたベッドに妊婦は横たわり、エコーがお腹にあてがわれる。モニタには胎児の図像が映され、マウス操作とともに自動的に胎児の身体状態が記録される。また、出産の現場でも、最低限の医療設備は用意されているようである。

 他の一般的な病院と違って徹底されているポリシーは、胎児が自分で外に出ようとする意志を最大限に尊重しようとする点にある。これに従い、吉村医院の内部では、陣痛促進剤や帝王切開などは一切用いられない。しかし、いよいよ生死が危ぶまれるという状況になると、他の病院へと搬送され、そこで(搬送先の病院の判断で)陣痛促進剤や帝王切開といった措置がとられることになる。すなわち、現代の医療技術によってのみしか救えない蓋然性の高い死に対しては、人工的な医療介入を認めているのである。院長である吉村先生の本によると、吉村医院でのお産における新生児の生死のリスクは何千人に一人というスケールであるという *1。 このデータは、ほとんどの自然分娩が問題なく行われているであろうことを示しているとともに、危険な状況では、死という最悪の状況を回避することを最優先しているであろうことを裏付けているように思う。繰り返すが、可能性のあるギリギリのラインまでは自然の摂理に委ねる。いよいよ危機的な状況では、陣痛促進剤や帝王切開といった選択肢に対して開かれている。それは、吉村医院に限らず、自然出産を標榜する全ての産院にとって、暗黙の了解である。

 自然出産を扱う報道の多くは、『自然ってすばらしい』という表層的な印象のみを積極的に宣伝するものであり、そうしたイメージの一貫性を崩しかねない「困ったときに現代医療登場」という暗黙の事項については、あえて表に出てくるものではなかった。一方、ゲンピンにあっては、それらの問題は明らかに、主題の基部を構成している。実際、院長である吉村先生は、徹底的に自然の摂理に委ねることを断念せざるをえない現代の状況に対する強い葛藤を、映画の中で幾度となく表明している。例えば、吉村先生は、「死は絶対的な悪である」という産婦人科学会の考え方に対して、明確に異を唱えている。出産における死には生物学的な理由があり、「死ぬべきであった生」を人為的な介入によって生かすことで生じるかもしれない問題について深く留意すべきであろう、と。「自然出産をギリギリまでトライする→もしものときは人工的介入」という方法は、実際のところ潜在的な死を仮想化しているともいえるので、一種のゲーム的状況に近い。可能性はあっても、蓋然性は排除されているのだ。それは、自然出産に臨む態度としては不完全であると吉村先生は考えている(と、思う)。

 しかしながら、産科医としてこのような考え方を明確に意思表明し、さらに、自然の摂理に従った死を許容するような医療を実践することは、おそらくは物理的に不可能である。思想の自由が唱われているはずの現代では、どうやら、あまり生産的とも思えない集団的風評の形成にも一定の自由が与えられる。現代の常識的感覚とあまりに異なる考え方は、容易に異端のラベルが貼られ、恐らくは、多大な風評被害によって診療の継続自体が困難になるであろう。

意図せぬ狂信性

 実際、私がこの映画を見た後に軽くネットで感想を拾ってみたところ、吉村先生の主張を何か狂信的なものとして受け取り、激しい拒否反応を示している人たちの声をたくさん聞くハメとなった。映画に対しては概ね肯定的であったが、映画の中で描かれる吉村医院に関して肯定的な文言を拾うのは、それほど簡単ではなかった。もちろん、彼らの否定的な声が、映画を見た者たちの感想を集約したものだとは思わない。一方で、彼らに拒否反応を発生させる回路の存在に、妻に付き添い吉村医院に通っていた私自身も、一定のリアリティーを認めることができる。

 例えば、多くの場面で映画の撮影場所となっていた、産婦たちにとっての労働(薪割り、食事作り)と団欒の場である古屋の醸し出す空気に対して、、ある種の不気味さを覚えてしまうことも告白せねばならない。茅葺き屋根の木造の建築は見ているだけで心が安らぐし、そこに集まっている女性たちの話している内容が特に同意しかねるものであるというわけでもない。したがってこの不気味さは、マイノリティ同士が集まったときに、その中で発せられるコンテンツが否応無く当の価値観と関連した社会性を醸し出してしまうことに関連があるのかもしれない。

 映画では、古屋とは別に、吉村医院を産院として選んだ理由や出産に対する思い等を発表し合うような小さな集会の場での様子も撮影されていた(母親学級)。この中で、ある女の人が、以前の出産で、胎児をお腹の中からむりやりに引きづり出されるような処置を受けて、現在も自分の子どもを心から愛せないと告白する場面がある。このように心に深い傷を負っている人が、当の問題を告白し新たな出産のための心的環境を育てるためには、周りが全員味方であるような安心できる空間が必要であることは頷ける。一方で、そのような告白に真剣に耳を傾ける人たちの中に入ると、「ここでは、自然出産の姿勢に対して熱狂的に賛成する人しか受け入れられないのかもしれない、、」と、そんな不安が頭をよぎってしまうのも事実である。

 私が心配するのは次のようなことだ。自然出産に対して肯定的な印象を持つ人にとって、その選択のプロセスはごくごく自然なものであるはずである。どちらかというと、生物が有している本能にただ従っている、という方が正しいのではないか。社会的な文脈をいったん棚上げしたときに聞こえてくる身体の声に耳を傾けた結果、という意味である。彼女たちは、「現代医療を否定します」という踏み絵を踏んで、自然出産を選んだわけではない。何かを肯定することが、すなわち、何かを否定することを意味するわけではない。彼女たちの多くは、現代医療に対して否定的な印象を持っていることは事実であろう。しかし、それはやはり感覚的なレベルの話にすぎないのであって、そのことと、それを思想的な立場として明確に表明することの間には、大きな乖離が存在する。彼女たちの多くは、シンプルに「ごくごく自然な環境で赤ちゃんを産みたい」と、そう感じているだけであり、そういう人に対して「なぜ自然出産(吉村医院)を選んだのか」と問うのは、何か、「あなたの選択に対してもっと責任を持ちなさい」と問われているようで、あまり気持ちのよいものではない。もちろん、これは意図されたものではないだろうが、結果的に「同質的な集団の中で同質的に振る舞うことを強いられる」のであれば、それは「自然崇拝」という宗教に署名を求められるようなかたちで、産婦に精神的な圧迫を与えることとなる。

矛盾を動力として維持される健全性

 一方で、吉村医院を実際に運営している人たち一人一人を覗いてみると、この空間が、実際には、同質的空間特有の不自由な雰囲気とは大きくかけ離れているということに気付く。映画の中で、産婆さんが集まり、産院の中で立ち上がる同質性に対する違和感を表明し合うかのような場面がある(私の好きな場面の一つである)。ある産婆さんは、自分の姉が出産を控えつつも、(おそらくは同質的な空気に一歩引いてしまって)出産の場として吉村医院を選ばなかったことを告白する。別の産婆さんも、古屋での営みがマニュアル的になっていることに対して危機感を表明している。そのような同質的な場に対して疲れてしまっているかもしれない人たちに対して、産婆として、相談してもらえるような空気は作れないものか。産婆の意見をもう少し吉村先生に伝えられるような場を積極的につくるべきではないか、、、、。このような人たちの存在が、マイノリティ集団の中で組織化される同質性がカチコチに固まることに抵抗している、私はそのように感じた。

 さらに言うと、(これも映画ではわかりづらいのだが)、実際には、吉村医院に通う産婦たち全員が、古屋に通い、薪を割り、共同で料理をつくり、、という営みに参加しているわけではない。古屋への参加は、全く強制されたものではなく、実際、私の妻のように、(交通の事情もあり)ほとんど古屋に参加することなく吉村医院に通っていた者もいるはずである。待合室の中も、映画に感じる空気感とは異なり、ただ距離的に近いからという理由で選んだというような、ごくごく普通そうな人(私の主観ですが)もよく見かけた。先述のように、妊娠にあたっての心構えを説く母親学級では、たしかに重い空気が流れることがある。しかし、それはむしろ例外的なものであって、吉村医院の魅力は、(少なくとも私にとっては)、自然出産ということで必要以上に肩肘を張らなくてもいい空気感にあったように思う。

 このような、吉村医院の内部における「重さと軽さの同居」を可能とするのは、吉村先生のキャラクターに依るところが大きいと思う。それは、吉村先生が、ある種の矛盾を許容した存在であるからである。私は、この映画を見て、実際に対面していたとき以上に、吉村先生のキャラクターに強い魅力を感じてしまった。私は男だから、「かっこいい」というのが最も近いだろうか(少し違う気もする)、。吉村先生は、その風貌も含めて、まぎれもなく周りにとってはカリスマ的な存在である。宗教の創始者に抱くイメージに重ねて、自然のあらゆる営為についてあらかじめ悟られている方なのであろうと、多くの人は思うかもしれない。しかし、映画の中で描かれている吉村先生は、神(聖)と人間(俗)の中間的な存在と言った方が、より適切なように思える。

 出産のあるべき姿を社会に広めるべくストイックに実践に励みつつも、一方で、一般の人間が有している悩みとのつきあいを完全に放棄しているわけではない。あるときは、猫と無邪気に戯れ合いつつ、自分が俗であることを自嘲気味に語る。また、ある場面では、吉村先生の娘と思しき人が、父親である先生に対して、仕事に熱中するあまり我が子に対する関心がおろそかになっていたことについて声を荒げて不平を述べている。そこでは、産院での産婦との良好な関係とは裏腹に、必ずしも親子関係がうまくいっていたわけではないことを垣間みることができる(実際には、私にはそこまで深刻な様子には見えなかったけれど)。また、別の場面では、(おそらくは胎児が自然死した際にどう母親に伝えるかを問われて)「この仕事を何十年もやってきていますが、赤ちゃんの死について報告するのに母親に対してどのように振る舞えばよいのか未だにわかりません、、、」というようなことを、非常に厳かな調子で述べている。これも、私が映画の中で特に好きな場面である。

 ところで、この死に関する発言は、宗教団体の頂点に君臨する者がいかにも言いそうなことからはかけ離れているようにもみえる。もしかしたらある人は、「自信をもって他人の死の面倒も見れないくせに、死を受け入れろなどと言うな」と言うかもしれない。本当にそうだろうか。「死の可能性を引き受ける」ことに対してわれわれが強い重みを感じるのは、実際の死に対していかに対処するべきかをわれわれが決して知り得ないからではないだろうか。その困難は、部分に切り取って、問題の部分から患部を取り除き、最後に縫合する手術のような性格のものでは決してありえない。おそらくは、個別の事案に対して、それまでの経験が通じないような一回性の態度で臨む必要があるのだ。「死を受け入れる」ことは「死に打ちのめされる」ことを通してのみ可能なのである。吉村先生は、死を征服しようとしているのではない。死という困難とともに生きることを目指しているのだ。

 このように、矛盾を制圧せずにそのままの姿で抱える吉村先生であるが故に、立場上、独裁的に振る舞ったとしても、(文字通りの意味で)吉村医院が独裁的な空間となることはないのではないか。私には、産婆たちの批判的会話は、産院内の強い抑圧的な空気の結果、病的な形でこぼれ出てしまったものというよりは、吉村医院を支えるダイナミックな矛盾の運動のうちの一方の役割を積極的に全うしようとする、極めて健全な表現行為であるように思えた。

学生に感想文を書いてもらった

 さて、長くなってしまった。そろそろ他の仕事もあるので、終わりに向けて走り出したい。私は、映画とかイベントとかの体験談をネット上で公開するほど、公共心に満ちた大人ではないらしい。これまで、そうした試みをしたことが一度か二度はあったかもしれないか、全て挫折してしまっている。この文章も実は、これから挫折するでのはないかと心配しているところである。いずれにせよ、今回は状況が少し異なる。私は、学生に、授業の課題の一部として映画の感想文を書いてもらったのだ。これらのうち、(許可の得られたものは)吉村医院に送ろうと思っている。彼らの先生である私が何も書かないわけにはいくまい、、。

 というわけで、学生の感想文を40人分近く見ることができた。これは貴重な体験だった。学生は、私が見る限り、感じたことをかなり率直に書いてくれたように思える。まずはありがとう。その証拠に、批判的な内容にもそれなりに多く出会うことができた。以下では、まず、その中に見出すことのできた批判の型の一つについて、私の考えを述べるところからはじめてみたい。

「母親の身勝手さ」を巡って

 おそらく、五人くらいの学生(そのほとんどが女性)が、「母親の身勝手さ」を指摘していた。例えば、私が印象に残っている文言を挙げると、一人は『私がお腹の中の赤ちゃんだったら、そんなひどいことを勝手に決めた母親を恨むだろう』というようなことを、また一人は「胎児の生死が母親の自己満足の犠牲になっている」というようなことを書いていた。ある者は、運動中に自然死した場合の責任の問題にも触れていた。これらの(私にとって同型的に感じられる)受容のされ方に対して、彼女たちの率直さに対して敬意を表しつつ、私としても率直に感じたことを述べたい。

 私たちは、確かに、重要な選択の迫られる局面では、他人からの強制的な干渉を避け、私たち自身の判断で道を選ぶことを好む。自分で選択したことに対して、何かしらの問題が起こったのであれば、それに対する損害は自己の責任として受け入れなければならない(自己責任)。他人の介入によって損害を被れば、責任の所在をはっきりさせ損失分をしっかりと補填せねばらならない。これが、現代に生きる理想的な「自由な主体」であろう。このような「自由な主体」像は、確かに、不条理な家と家との結婚を時代遅れのものとしたり、才能のある人間が正当に査定され正当な利益を得ることには大きく貢献してきた。しかし、この考え方の根本には、人と人とのつながりを同質で比較可能な個人へと分解し、個人同士の損得闘争に還元しようとする意志がある。この闘争の中で、同じような変数を持った「同質な個人」同士は置き換え可能でなくてはならない。「派遣会社」という形態は、この思想を体現するうえで最適な装置の例である。派遣社員の多くは、人と人との深い関係性を築く時間も与えられないまま、 新しい職場を転々とする。任期が過ぎれば、有無を言わさずに解雇される。これが、顔の無い個人を「効率的」に扱うことを欲望するシステムの典型的な姿である。

 このような制度設計は根本的なところで大きく誤っている。私たちは、自由を追求するとともに、同時に、かけがえの無い他人との依存関係を追求する矛盾した存在である。この矛盾のうち、どちらか一方だけを切り取っても、それは人間に似た何かにしかならない。ここで話を、学生の一連の批判に戻そう。私が言いたいのは、(胎児の選択の自由を奪ったとする)母親の自己満足を責め立てる心性は、現代に特徴的な、「自由な主体であらねばならない」というような強迫的な観念が行き過ぎた結果であるように思えるのだ。母親の胎内の胎児は、自由な選択者であるだろうか。母親の胎児は、生物学的には完全に母親の生命活動に依存しきった存在である。われわれが、大人になって自由な主体として外に飛び出すためには、常に戻ってくることのできる安全な場所が無ければならない。おそらく、この「安心できる場所」の原初的な記憶は胎盤の中にある。このような胎児にとって、母親がどのような思想を持っているかを問うのは、おそらく我々人間にとって、明日の天候状態がどうあるべきかを問いたてるようなものである。それらは選択不能であり、所与の条件にすぎない。我々は、津波や台風を引き起こした自然現象に対して、その責任の所在を明らかにすることはしない。同様に、胎児にとって、母親の選択は、全的に受け入れなくてはならないもののはずだ。それが、人間が人間らしく生きていくための出発点なのである。

 母親と胎児の関係は非対称である。よって、上で述べたことは、母親の側の立場にたった場合には成立しない。仮に、自然出産をして、必要な措置をとらずに死産となった場合には、母親は、非常につらい思いをし、自身の選択を責め立てるかもしれない。母親は依存される立場なのである。しかし、そのようなかたちで自然出産を選択した判断に対して「自己満足」というラベルを貼ることに私は同意しかねる。「自己」というのが意識的な主体であるのであれば、自然出産という選択は、「自己」の外部に選択を委ねようとした結果である。むしろ、「自己」の中の満足に安住しようとしない、意識的人間から生物的人間への必死の跳躍の結果なのである。もちろん、実情はこれほどナイーブではない。生物的人間であろうとする姿勢そのものが意識的な活動に還元されやすいことを考えれば、実際には「跳躍」というよりもそれら二つの相の間の「相克」の結果と述べた方が適切かもしれない。母親は、自らの胎盤に宿る胎児に「自己」という主体の像を投影し、それらの死の可能性を想像し、心穏やかではいられないだろう。しかしながら、それを克服しようとする姿は、(最後に河瀬監督が神妙に述べていたように)自然という個人の生きる時間の中では考えられない程に長い歴史のスケールの中で何かが生まれ、何かが死んでいくという営みの中に身を置くということなのである。さらに言えば、自然という巨大な母体に対して、われわれ人間が確固たる依存関係をつくることの、一つの実践なのである。

帝王切開を選択する生物の本能

 ところで、いまいちど、ここで(生じたかもしれない)誤解を解いておく必要があるように思う。上で展開された議論の中で想定されていた女性像というのは、吉村先生が理想としている、完全に神の手に委ねるお産というものを受け入れた者であり、特定の女性を指すものではない。そのような女性が存在することを、少なくとも私は知らない。これまで繰り返し述べてきたように、実際には、いよいよ神のご機嫌が不透明になってきたら、吉村医院や妊婦の判断で別の病院へと移ることができる。

 映画の中でも、おそらくはそのような状況で別の病院に搬送され、帝王切開を受けたという女性が登場していた。彼女は、「江戸時代であれば、私か、こどもか、どちらかが死んでしまう部類のお産だったかもしれない、、でも、こうして、現代の医療技術で、両方助かることができた、、吉村医院のお産にもトライすることができたし、現代の医療の恩恵にもあずかることができた、、」というようなことを非常に真摯な面持ちで話していた。私は、彼女の話を聞いているとき、胸が詰まる思いだった。私の家族は吉村医院で二度のお産を経験し、幸い大きな困難も無く、元気な赤ちゃんと対面することができた。しかし、彼女と同じようなギリギリの状況となったときに、果たしてどのように対処するだろうか。私の家族も、最終的には、同じような道を選ぶだろう、とは思う。でも、どのタイミングで?どこまで頑張ればよい?

 いよいよという危機的状態に陥ったときに、それでも「ここに残ります」という人がどれほど(一人でも)いるのか、私にはわからない。帝王切開や陣痛促進剤の介入によって生存の確実性を高めることも、まぎれもなく生物的な選択の一つなのである。あるいは、実際には「生か死か」をいよいよ神に委ねる状況になっても、多くの場合、自然は何らかのエレガントな解決策を見つけて、赤ちゃんもお母さんも無事に生還させてくれるのかもしれない。しかし、それは前もって「見通す」という態度が成立しない、非常に困難な状況であることは想像に難くない。

 不確実な領域に入ってしまった途端、安全を保証する人工的な方法に飛びついてしまうことが、現代に蔓延する科学的思考と強い親和性があることは事実である。しかし、その姿勢はまた、生物の本能でもあるのではないか。繰り返すが、危機的状況においてもなお自然分娩に固執する産婦の話を私は聞いたことが無い。人間は、危機的状況に直面してこそ、むしろ生物の本能をむき出しにするのではなかったのだろうか。であるならば、自然分娩の状況がはかばかしくない場合に帝王切開という選択肢を提示されれば、そうした現代的思考とは無関係に、人間は生物の本能として帝王切開を選択する、このように捉えることの方が自然ではないだろうか。この意味で、吉村先生の理想的なお産の社会を実現するためには、一人一人の意識付けを啓蒙するというよりも、帝王切開という選択肢が存在することそのもののを問うていく必要があるのかもしれない。私には、この問題が、例えば遺伝子組み換えのような問題と同じ土俵で取り扱うべきものなのかどうか、よくわからない。

「出産が美しかった」

 学生の感想文を全体的に眺めると、自然出産に対して肯定的な意見が圧倒的に多かった。もっとも、実際には、肯定的に書ける部分のみを選択的に抽出しているという風にもとれた。深く掘り下げると途端に難しい問題系にぶつかってしまう。実際、出産と死の関係にまで踏み込んだうえで、自然出産に対して肯定的な意見を述べる者はいなかった(特に、驚くことでもないだろう)。ところで、私のような男にはよく分からない感覚ではあるけれど、多くの女性が、将来の出産において、西洋医療的な薬品の匂いのする器具環境の中に入っていくことに漠然とした恐怖感を覚えていることを告白していたのは、非常に興味深かった。彼女たちは、現代医療にどっぷり浸かってきた世代であるにもかかわらず、である。こうしたことからも、出産というのがいかに女性にとって特別な儀式なのかがうかがわれる。

 さて、最後に触れたいのは、これとは別のことである。多くの学生が出産シーンに対して強い衝撃を受けたことを告白していた(少なくない数の学生が実際に「衝撃的」という言葉を用いていた。正直な感想なのだろう。)。この映画には、三人の女性の出産シーンが収められている。どれも、非常に生々しい現場である。ピンと張りつめた空気の中で、出産の切迫感がありありと伝わってくる映像となっている。さらに言うと、こういって差し支えなければ、非常に性的な空気も感じられた。ただし、通常の意味のそれとは異なり、性が聖的な領域に属していることを強く実感できるような意味において、である。同じ場所で出産を見守った経験のある私は、(非常に強く感情移入をしてしまうのだろう)実はどの場面でも涙をこらえるのに必死だったのだが、どうやら、このような出産シーンをはじめてみる学生にとっても、事情はそう大きく変わらないらしい。学生のうちの一人は「出産が美しかった」と書いている。非常に率直な表現だと思う。「出産は美しい」。子どもを抱き上げて赤ちゃんの存在を確認すると、どの母親もまるでプログラムされたかのように「ありがとう、うれしい」を連呼する。それを横で見ている小学生くらいの子どもが、口を真一文字に結びつつも涙を流している。それを映像として見ている我々も、画面から目を離すことができない程に身体を硬直させ、映像の中の時間に浸りきっている。

 実際、素朴に言って、出産に立ち会うという体験は、現実というスケールからはかけ離れすぎていて、ただただ驚愕というしかない。人間のお腹のなかに、さらに、別の小さい人間が入っているという事実からしてまずは衝撃的、サイズは小さいといっても、臨月にもなると体重は3kgを超え、身長は50cm程にもなる。しかも、お腹のなかのそれは卵のような球形とは異なり、手、足、顔のようなでっぱりがくっつき、狭い空間の中ではいかにも扱いづらそうである。さらにその中には臍の緒という(命の手綱であるとともに)非常にやっかいな障害物までもが存在する。これに絡まった場合には、どうやって姿勢を立て直すのだろう。こうした複雑な空間的条件の中で、赤ちゃんは、産道の中を少し進んでは少し休憩するというリズミカルな運動を続けたかと思うと、一転して、じーっと沈黙を始めたりもする。この沈黙が永遠に続くかのように感じられた頃、これまでの遅れを取り戻すかのように一気に進み始め、、そのままつるっと出てしまったり、それとは反対に、まるで一つ前の段階に戻ってしまったかのように再び長い沈黙に入ってしまったり、、、時間の進み方は全くもって多様である。このような複雑な計算の一切はいかにして可能なのだろう。またそれを取り仕切っているのは誰なのだろう。私は一応工学者の端くれではあるが、これをなし得る自然の営為は、ほとんど奇跡である。

 私たちは、人間の手を離れながら、その時々の困難を軽々と乗り越えて新たな秩序を獲得する、そのような自然の営為に対して、とりわけ強い美しさを感じる。「出産の美しさ」の本質は、おそらくは、私たちの身体そのものが、そのような美しさを体現する自然の一部であったことを知ることなのだ。(120830)

             

           


付録

この映画を授業でとりあげた理由

 ゲンピンを上映したのは、大学三年生を対象とした『生体情報論』という授業の中であった。『生体情報論』の授業では、全般的に認知神経科学のトピック(典型的には視覚とか体性感覚等の五感や運動と関係した認知機能の紹介)を扱っていて、いわゆる医学に属するような話題は一切扱っていない(し、扱えない)。それではなぜ唐突的にこの映画を挿入したのかというと、それは、私の所属している学部が「芸術工学部」であることと関係している。

 少し込み入った話になるけれど、私の考えでは、これまでの科学が、効率性や安全性の名のもとに自然を人工化していく営みであったとすると、ここに割って入る芸術(あるいは「芸術に寄った科学」)の役割は、科学的な指標でデザインされた人工物を、新たに自然の世界の中にグラウンドし直すことにある思う *2 。ものづくりにおいて、「作品がある段階から自律した生き物となること」、そしてその「生き物」を作り手の意思でがんじがらめにせずに、壊れること(「死」)を受け入れたうえで適度に飼い馴らしていく姿勢が重要であることは、ある種の経験則として直感的に同意してもらえるだろう。私は、そうした「アンコントローラブル」な状態が、人工システムと比した時の、自然の際立った特徴と考えているし、それを扱うための場所としては、少なくとも今のところは、科学よりも芸術の領域に分があるだろうとも考えている。

 対象の操作可能性を重視する科学は、短期的な予測が困難な動的対象を扱うことを不得手としてる。必ずしも、そうした性質が科学的有用性に叶わないというわけではなく、どちらかというと、それらの指標の計測自体に多大なコストがかかってしまうこそが問題なのだ。そこで多くの場合、科学は、対象を観察可能な変数群へと恣意的に分解するとともに、対象に流れていた時間の流れも切り取ってしまう。このような条件で生まれた製品の多くは、非人間的で冷たい印象を持たれることが常である。一方で、芸術的な態度の特徴は、対象に片足を突っ込みながら、対象に流れている時間を殺さずに共有することにある。しかしながら、この態度を徹底すると、対象が望まない状態で「死」へと決定的に走り出したとしても、それは受け入れねばならないことなのかもしれない。あるいは、「死」を回避しようとする人為的介入そのものも、生きた時間の立派な構成物の一つなのかもしれない。それでは、どの程度の干渉であれば、対象にとっての時間を殺さずに済むのであろうか。

 私のこれまでの研究制作におけるモチベーションは、細かいことを別にすると(しすぎると、、)そのほとんどがこの問題系に還元される。そういうわけで、教育的題材としてこの問題系を取り上げることは、私にとって、極めて自然な成り行きなのである。で、その題材の一つが、自然分娩における死を主題としているゲンピンであった *3。ということで、「生体情報」と「芸術工学」と「自然分娩」が何となくつながってしまったのです。


*1 「わしのところでお産で死んだお母さんは1人もありません。新生児は数年に1人はある。だから、死ぬということは何千人に1人はあると、それが恐いから切っちゃったり引きずり出したりするのがいいんだと、それだけに凝り固まっているなら、今の医療思想というのは哲学的な意味では非常に幼稚だということです。」(『いのちのためにいのちをかけよ』, 吉村正, 地湧社, p.110)
*2 例えば、いわゆる産業ロボットというやつは、与えられた条件の中で毎回決まった動作をすることが要求されるために、極度に閉じた工場のような空間をつくり、考慮すべき状況の数を極力に減らそうとする。このようなロボットが幅を利かせるような未来の世界を想像するとおそろしいではないか。そうしたロボットの大部分は光の変動を嫌うから、多くの魅力的な屋外空間を工場化するように主張してくるかもしれない。親交を深めるべくスキンシップをとろうとしたところで、そのような(ロボットにとって)予測困難な振る舞いを素直に喜んでもらえるかはかなり疑わしい。産業ロボットには、端的に言って「死」が存在しない。「死」の匂いがする状況は、あらかじめ、ひたすら排除されている。これに対して、いわゆる、生物規範型と言われたりするロボットは、少なくとも、多少なりとも「死」の問題を再び扱おうとしている。こうした世界では、不確実な世界との対面とそこで立ち現れる運動認知機能の多様さこそが、生物を生物たらしめていると考えている。生物の一つの目的は「生きる」ことであるから、このような、一見、「死」と向かう姿勢こそが、ある種の安全性なり効率性を満足している、と言えなくもない。ただ、産業ロボット的な見方からすると、このような分かりにくい形で実現される有用性を受け入れることはできない。というのも、ここで得られた達成がどういったプロセスに保証されていたのか、その点に対する説明ができないからである、おそらくは原理的に。
*3 生態系の問題を考えることも優れた題材となる。実際、講義の前半で『ハチはなぜ大量死したのか』(ローワン・ジェイコブセン, 文藝春秋, 2009)を取り上げ、ハチの生態系に対する人間の介入の問題を議論した。

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Last-modified: 2012-09-01 (土) 12:32:32 (1905d)